2020-12-25 第203回国会 参議院 議院運営委員会 閉会後第1号
今度は安倍晋太郎先生の時代からの秘書さん、しかし実際は東京の秘書だと言われている。でも、その東京の秘書は今回の地検はおとがめなしじゃ、国民納得できないじゃないですか。それで何であなたは議員に居座り続けられるんですか。 今日の質疑で疑惑は更に深まっています。前総理の不誠実な姿勢もはっきり見えました。
今度は安倍晋太郎先生の時代からの秘書さん、しかし実際は東京の秘書だと言われている。でも、その東京の秘書は今回の地検はおとがめなしじゃ、国民納得できないじゃないですか。それで何であなたは議員に居座り続けられるんですか。 今日の質疑で疑惑は更に深まっています。前総理の不誠実な姿勢もはっきり見えました。
総理、このような人に、それも安倍晋太郎先生の時代からの秘書さんに責任をなすりつけちゃいけないんじゃないでしょうか。安倍前総理が潔く自らけじめを付けるべきではないでしょうか。私はそう考えますが、いかがですか。
これ、総理、御記憶にあられると思いますけれども、お父さんの安倍晋太郎先生が当時中心となってやられたとき、総理はその当時は秘書官か何かであったんじゃないでしょうか。この運動、もう三十五年近くずっと続いているんですよね。これは、北は北海道から南は沖縄まで、多くの国民の皆さんがこの運動をずっと続けていらっしゃる。
ちなみに、このときの自民党の幹事長は、総理のお父上、安倍晋太郎先生でした。私の父、江藤隆美も、総合農政調査会長として、たびたび米国を訪問しまして、ブロック通商代表などと、まあ、あの性格ですから、机をたたいて、本当にけんか腰の激しい交渉をしておったのを私も記憶しております。 そして、これが決着後は、肉用子牛生産者補給金制度を創設し、総額で一千五百億円もの国内対策を取りまとめました。
少なくとも、この安倍晋太郎先生の、御本人からですよ、御本人から寄附された、これについては御本人のお金なんです。(発言する者あり)御本人のお金なんですよ。これは法的に確認をしました、御本人のお金なんですよ。ですから、相続税の回避という意味合いがどうしても出てくるんです。
安倍晋太郎先生のお金を、流れ流れて、いろいろな団体を通じて今安倍総理が、政治資金としてだと思いますが、扱うことができているというのは間違いない事実だと思いますし、そもそも、今ハンディキャップ、まあ逆ハンディキャップだと思いますが、これが認められているというのは、やはりちょっとおかしいと思うんです。 政治団体というのは、ある特定の政治家を応援するためのものです。
総理のお父様である安倍晋太郎元外務大臣、きのうが御命日であったというふうに聞いておりますけれども、この故安倍晋太郎元外務大臣のところに、安倍晋三総理は一九八二年に外務大臣秘書官になられたと伺っておりますが、この八二年から安倍晋太郎先生がお亡くなりになった一九九一年までの十年間にわたって、晋太郎会、晋和会、夏冬会、この三つ、当時、指定団体という制度があって、御本人に対して企業なんかが寄附することができました
この通産省勤務時代に、当時通産大臣であった安倍晋太郎先生と、北海道のリーダー格であった中川一郎先生に勧められ、政界入りを決意されたのであります。 その際、父金五先生からは、本当に政治家なんぞになりたいのか、余り感心しないね、一生涯、官僚として国家国民のために尽くすべきではないかと強く反対されたそうです。
私も、一九九〇年に衆議院に当選したとき、安倍晋太郎先生の政策集団、清和会で町村先生に大変先輩として御指導いただいてまいりました。本当に見識の高い、そして議会人として優れた能力をお持ちになって、この御逝去については我が国の議会にとっても大きな損失だと、本当に痛恨の極みでございます。何度も私の地元にもおいでいただきましたし、町村牧場のおいしいヨーグルトも何度も頂戴をしたこともございます。
後ろを振り返ると最後列に中曽根康弘先生や竹下登先生、安倍晋太郎先生など重鎮の先生方が新議員の品定めをすべく腕組みをしながら我々初当選議員を見つめていました。隣席の同僚議員に、「あそこまでたどり着くのは遠い道のりだなあ。」と語り合ったものです。
大臣、あなたは一九九〇年に私と一緒に安倍晋太郎先生の下で衆議院に同期当選しました。安倍晋太郎先生が私たちに常に言ったことは、政治は信頼だと、信なくば立たず。今あなたと福島県民、特に双葉、大熊のこの住民の地権者、非地権者を含めて、あなたに対する信頼は全くないんです。これで影響がないとは私は言えないと思う。 先ほど来申し上げているとおり、もう一度だけお聞きします。
このとき、総理のお父さんであります安倍晋太郎先生からも、この話をしたときに、是非それは、猪木さん、言い続けてくださいというお話をいただきました。世界のスポーツ大国と言われる多くの国では、政府が選手に手厚く支援しています。スポーツの活性化のためにスポーツ省を設置している国も多数あります。
○儀間光男君 今の攻める農水産業の発案者が安倍晋太郎先生であったということは、親子四代にわたって、四名にわたって因果なものを感じて、新たな感慨を覚えるところであります。 さて、次に行きますが、先ほど申し上げましたTPP交渉の裏側に位置付けました米などを交渉のテーブルにのせるという場合について少しく申し上げたいと思います。
私は、通産省勤務時代に当時通産大臣であられた安倍晋太郎先生と、北海道のリーダー、中川一郎先生からお勧めを頂き政界入りを決意致しました。其の時は、参議院自民党議員会長であった父、町村金五は、政治の世界は厳しいものだと言って、私の政界入りには強く反対しておりました。しかし、私が一年半の準備期間を経て初当選出来た時、最も喜んでくれたのも父でありました。
松岡利勝先生と私は、私の方が若干年上ではありますが、同じように、安倍晋三総理のお父様であります安倍晋太郎先生の御教導を仰ぎながら、平成二年二月の第三十九回衆議院議員総選挙で初当選した同期の間柄であります。 松岡先生とは、初当選して間もない平成四年十二月、日本農業の根幹、国民生活の土台である米、水田を守ることを目標に、日本の農業を守る特別行動議員連盟を結成いたしました。
○河村(建)委員 安倍総理、すばらしい家庭教育をお受けになったと私も拝察いたしますし、昔から子供は親の背中を見て育つといいますから、私も同じ選挙区でもございましたから安倍晋太郎先生もよく存じておりますし、また、おじいさんの岸信介先生もよく存じております。そうした中で今日の総理があるんだということを、私も思いをいたすわけでございます。
私は、あなたのお父上、安倍晋太郎先生とよき交流関係を長く持たせていただきました。もう一息で政権の座にお着きになるというときに病に倒れて、残念ながらその機会を失ったのでございます。さぞかし無念であったろうと思います。その御子息のあなたが、今晴れて総理大臣におなりになった。父上はどんな御心境であろうか、そのお心を思うのでございます。 今はやっております「千の風になって」という歌を御存じでしょうか。
このいわく因縁は、今を時めく総理大臣、安倍晋太郎先生の時代から私が始まるんです。そして、安倍晋太郎先生の御支持によって、三塚先生の御推薦によって渡辺美智雄先生のところに、政調会長のときにお預けを願った、まさに私はそこに一期一会を感じるんです。不思議な御縁なんです。 総理、あなたのお父さん、本当に私はお世話になりました。
正にそのとおりでございまして、昭和四十九年の十二月九日、三木内閣、そこで安倍晋太郎先生、まあ私にとっては派閥の親でございまして、私はそのおかげで当選させてもらったんですが、安倍晋太郎先生が農林大臣に、当時はまだ農林水産じゃなくて農林大臣でございました、に就任をされまして、私は当時、農林大臣官房企画室の係長でございました。だから、安倍晋太郎農林大臣の下で働いておりました。
私は、総理の御尊父であられます安倍晋太郎先生に大変御指導いただいた一人でございます。私は先輩として非常に尊敬しておりました。立派な方でありましたし、この次には間違いなく総理・総裁だと多くの人が認めておられた方であります。その安倍晋太郎先生が、総理就任目前にして病に倒れられて、御本人の無念ももちろんでありますけれども、私自身も大変残念に思っておったところであります。
ぜひ御自立をいただいて、亡くなられた安倍晋太郎先生のように、寛容で幅広く、バランスのとれた大人物になられんことを祈念しております。 それでは、質疑に入りますが、総理には、国民にわかりやすく、真摯に議論にこたえていただきますように望みます。外来語での御説明ではなく、ここは日本でございますから、私どもも「公正な社会、ともに生きる国」と申し上げていますが、美しい日本語はたくさんあります。
そのときに、当時の内閣総理大臣が福田赳夫先生、自民党は大平幹事長、そして安倍晋太郎先生、竹下登先生、四人の先生がそろって、歌舞伎役者の女房で何の経験もない、政治的バックのない私にどうしても立候補しろというお誘いがございまして、私は、それまで二十五年間女優としてやってきまして、その女優の名前を全国区で政治献金できるのであれば、それは私は自民党への感謝の気持ちと思って、清水の舞台から降りるつもりで立候補
昭和六十二年十月、「ポスト中曽根」として安倍晋太郎先生を総理にとの思いはかないませんでしたが、その後、森政権、小泉政権と「自立した保守」の理念が継承されてまいりました。